バッドトリップ・コンビナート
海芝浦訪問記




そこはJR鶴見線の終着駅で長いホームの一方が海に面している。もう一方に出口は一応あるものの、それは東芝の工場の通用口を兼ねたもので、社員以外の人間は立ち入り禁止である……一方が海で一方が東芝、外に出ようとしたら方法はふたつ、海へ飛び込むか、東芝の受付で社員証を見せるか……その駅のホームに魚でも海蛇でもなく東芝の社員でもない人間が降り立ったら、折り返しの電車が出るまでただホームに立ち尽くしている事しか出来ないのだった。

11月の最後の日曜日、海芝浦という駅に行った。その前々日の昼間、ひとりで留守番していた私は、笙野頼子について書くならば、ぜひとも海芝浦まで行かなければならない、という思いにとらわれてしまったのだ。夜になり猫が帰宅するなり、アサッテハ海芝浦ニ行クノデス、と宣言し、夜中チャットに行き、前々から海芝浦に行こう行こうと話をしていたSさんがいることを確認すると、Sさんに向かって、おもむろにキーボードにこう打ち込んだのだった。
―――海芝浦に行こう!
相手にはそれでどこに何をしに行くつもりなのかすぐにわかるはずなのだった。猫は横からモニターを覗き込んで、回答が画面に表示されるのをいっしょにおとなしく待っていた。

―――だからね、その駅に行きましょうよ。ともかくプラットホームの片側が海なんですから。

―――いいよ、いつがいい?
―――あさって!(爆
―――いいよ。(核爆
その瞬間に、日曜日は海芝浦、ということだけは決定されたのであった。

―――七〇年代に石油ショックがあってね、それで、その後から次第に寂れて閑散として、バブルの時もずっと落ち込んだままでベッドタウンが不況でね、それで高度経済成長の遺跡なんです、その景色がまた近未来みたいで面白いんですよ、……まさにブレードランナーの世界なんだなあ、荒廃した産業の夢の後の、そんな、何もかもが終わった後の景色を見に行くんです。

日曜日の朝、夢の中でSさんからの電話を受けたところで目が覚めた。お昼前に夢じゃないSさんからの電話がかかってきたので出かける準備をはじめ、猫といっしょに家を出た。明大前から井の頭線で渋谷に行く。渋谷から山手線に乗り、品川で京浜東北線に乗り換えて、鶴見に着いた。鶴見線のホームに入るためにはもう一度自動改札を通らなければならなかった。三両になった黄色い電車がホームに止まってる、海芝浦行き、あの電車に乗らなければ、日曜日は本数がとても少ないらしいから。発車5分前、慌てていたから馬鹿正直に海芝浦までの切符を買ってしまう。どうせ降りられないんだから、どこか途中までにすればよかったのに。電車に乗り込んで少しすると、電車がゆっくりと走り出した。豊田市はともかく、ダイハツ市ってのがあるらしいんだよ、とSさんが教えてくれた。スーパージェッターのことも知っていた。『タイムスリップ・コンビナート』をめくりながら、路線図を見る、国道、鶴見小野、弁天橋、浅野、新芝浦、海芝浦。窓の外は工場ばかり、ようやく海が見えはじめた、そこに釣り糸をたれている人々の姿が見える、マグロは釣れないのだろう、やっぱり。海芝浦に着く直前に、電車の中を見回すと、私たちの他には、親子連れが一組、若いカップルが一組、黒いジャンパーの年齢不詳の男の子がひとり、彼らは海芝浦に何をしに行く気なんだろう?それを聞いてみたい欲望にかられるが、じゃあ、あなたたちは何しに来たんですか?と聞き返されそうで怖くて聞けない。

短いホームの片側に緑の鉄柵だけ、下は海、柵の下の海にベージュの汚い泡が浮かんでいる。中性洗剤とシャンプーの瓶が浮いて漂っている。扇島石油、昭和石油、というタンクの文字、扇島はここだ。

コンビナート

海芝浦の駅に電車は止まり、次の発車時間のアナウンスが入る、待ち時間は25分、とりあえずホームに降りてみる。駅のそばに東芝の工場があるのではなく、東芝の工場の中に駅があるのだ、と了解する。

これより先は東芝構内です当社御用の方以外は入場をお断りします。これも無人駅という事になるのだろうか。それとも駅員は東芝の構内に隠れているのか。

東芝の通用口まで行ってみる。左側に警備員の詰め所があり、右側にJRの自動切符販売機が設置してある。裏手にコカコーラの自販機とトイレ、駅の機能をここが一応は果たしているというわけか。券売機の横に置かれている棚にきちんと並べられた一般紙業界紙取り揃えられた新聞は東芝の社員のためのものなのだろう。黄色いヘルメット。

電車が走り出すと振り返って大きな表示を見落としていた事に気が付く。東芝の工場の壁の文字だ。工場と二十一世紀に向かって限りなく前進しよう、と書いてあるのだった。

21世紀に向かって

壁の文字、というよりは、そう書かれたプレートが通用口から見える建物の壁に掲げてあるのだった。そこに立てばすぐに目につくような大きくて目立つものだ。「タイムスリップ・コンビナート」には出てこないが、ホームの奥には海芝公園という名前の小さな公園がある。親子連れの父親が昔ハコンナ公園ナカッタ、と言っているのが聞こえてきたし、笙野頼子が来たときにもまだなかったのだろうと推測される。柵やベンチにペンで落書きがたくさんしてある。ひろくんずうっといっしょにいようねまこ。それでここが隠れた観光名所というかデートスポットであることをはじめて知った。年に3回、もう11回も来ています、と書いてあるのもあった、リピーターまでいるんだ!と驚いた。狭い公園の中になぜか救命浮輪が二つも設置されている、ここから海へ飛び込みをはかる奴もいるっていうのか、まさか。女子トイレに入ると、給水タンクの上に一枚の便箋が広げて置かれていた。中学生くらいの女の子の字でこんな事が書いてある……これはフランセ・メールというものです、この手紙を4日以内に4人の人に送ってください。そうすれば28日以内に好きな人から告白され、30日以内にいいことがあります。バカにするとよくないことが起こります。必ずボールペンで書くこと、差出人の名前を明記すること。ホームと通用口と公園の間を一周して、写真を何枚か撮る。ひとりで乗っていた男の子が同じ範囲を徘徊しながら、何かをしゃべり続けていることに気が付く、どうやらヤバイ電波を傍受しているっぽかった。

板とホームの隙間で焦げた金属のような海が動く。そこだけが夢の景色に思える。夢のマグロのいない夢の海だ。

海

海水は意外にも澄んで見えた。空が広くて、対岸にはコンビナートと大きな橋が見える。荒涼としてはいるけれど、それが清々しい、とすら思えてくる。今が冬に近い秋で気温が低いせいかもしれない、真夏にひとりで来たらきっともっと違った感想を持つことになるのかもしれない。
再び電車に乗り込んで、引き返そうとすると、弁天橋という駅で大量のおやじが乗り込んできた。みんな同じ年格好で、同じ紙袋を手に持っていて、上機嫌で語り合い続けている。車内に酒臭さが充満して飽和する。
―――あの頃はねえ、あーもうねえ、はっはっは。
―――いやー、今時はそうもいかんでしょう、あっはっは。
―――そりゃあねえそりゃあねえそりゃあねえ、ほほほー。

おやじの数はもう五百人には達している。おやじの上におやじが肩車をして、まるでホラーコミックで読んだ兵隊さんの行進みたいだ。おやじひとり分のスペースに五人で重なっている。

私も猫もSさんも、いつのまにかおやじたちの集団に全意識を奪われてしまっていた。同じ駅から乗り込んできた彼らは、またまるごと同じ駅で降りていった。ほっとしていると、いきなり電車が逆走をはじめた。どういうことだろうこれは?実は、降りるはずだった終点の鶴見駅にもう着いていて、だからおやじたちもそこでみんな降りたのだが、私たちはそれに気が付かず、電車はそのまま折り返し運転で再び海芝浦を目指して発車したのだった。タイムスリップ、さらにループにハマるのか?まるで正真正銘の悪夢のようだ、レストレス・ドリーム。大慌てで次の駅、国道で降りる。反対側のホームに行くため階段を下りる。ここも無人駅だ。垣間みた高架下が異様に暗くておどろおどろしい雰囲気に満ちていてぎょっとする。しかも、ホームに出るための階段の途中に、なにやらこんもりと……。一瞬目に入ったそれはどう考えても人糞に見えたのだった。見に行った猫も、アレハヒトノうんこダ、横ニげろモアッタ、と証言した。でも、Sさんは最終確認には行ってくれようとはしなかった。次の電車を待つ間、線路に降りたりして、国道駅の周辺を観察した。駅の脇に大きな道が走っている、これが国道だから国道駅なのだろう、と話し合った。他に名付けようはなかったのだろうか。来た電車に乗ると、またしても同じ年格好で、同じ紙袋を手に持った、上機嫌で語り合う、酒臭いおやじの集団が乗っている。

そうだ、彼らこそレプリカントだ。

おそらく弁天橋にはおやじレプリカント製造工場があるはずだ。生産ラインから規則正しく吐き出され、規格に合格したおやじたちは鶴見線を通じて全世界中に紙袋と体臭つきで送り出されていくのだろうか。
今度こそ無事鶴見で下車することができた。電車が駅に入っていくときにふとホームを見ると、海芝浦にいた、黒いジャンパーの男の子が立っていた。電車を降りて振り返って見ると、彼は私たちが乗っていた電車に、それが当たり前であるかのようにまた乗り込んで行くところだった。

boldタグによる強調部分はすべて笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」(『タイムスリップ・コンビナート』、文藝春秋、1994)からの引用である。写真は筆者撮影。


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